2024年05月17日
前回は、「動物の福祉」、「動物の権利」、さらには「自然の権利」という考えかたを紹介し、私たちは何に対してどこまで配慮すべきかを考えてみました。
人間と動物の生命や権利とどちらを優先するかというと、動物のために自分の生命を犠牲にすることはできないでしょう。また動物よりも人間が優れていて価値がある、という見方を手放すことはなかなかできないことです。正解のない問いに対する深い対話や内省が必要になります。
今回は、「ワンヘルス」と「ワンウェルフェア」という人間と動物、環境を統合的にとらえる考えかたと実践について取り上げます。
「ワンヘルス」が発展して、「ワンウェルフェア」という考えかたが出てきたことから、まずワンヘルスについてとりあげます。
ワンヘルスとは、人間の健康と動物の健康、さらに生態系の関係を一体として捉える統合的な取り組みのことです。最近では、新型コロナ(COVID-19)のパンデミックとなり、「人獣共通感染症(ズーノーシス、Zoonosis)」という観点からワンヘルスの考えかたが注目されました。
新型コロナの最初の発生源については未だ不明確な点がありますが、野生動物が保有していたウイルスが家畜あるいは人間に伝搬し、人間側の備えがないままに世界中に蔓延し、甚大な被害をもたらしました。
また近年では、新型コロナに限らず、過去にはみられなかった「新興感染症」という人獣共通感染症の拡大がみられるようになりました。
人間活動が拡大し、野生生物の生息する自然環境の奥地まで侵入することで、野生動物体内のウイルスが人間あるいは家畜動物と接触する機会が増大していることと関連していると考えられます。このため、「新興感染症を防ぐ」という観点から人間と動物、生態系の関係のありかたが問われてきました。
ワンヘルスは、人獣共通感染症に対して、人間の健康を扱う医学と飼育動物の健康を扱う獣医学の統合を図る「ワンメディソン(One Medicine)」の考えかたに由来します。その後、飼育動物だけでなく、野生生物の健康も射程となり、さらに生態系との関係まで拡張されることで、ワンヘルスという考えかたとなりました。表1に人獣共通感染症と新興感染症の例を示します。
表1 人獣共通感染症と新興感染症の例
注)*が新興感染症とされるもの
出典)厚生労働省の資料等より抜粋して作成
ワンヘルスの考えかたは、新型コロナの感染拡大でにわかに浮上したように見えますが、ワンヘルスの初出は2004年にロックフェラー大学で開催された野生生物保護協会のシンポジウムの成果である「マンハッタン原則」です。同原則は12の行動計画で構成されますが、環境との関連や社会の構造の問題として重要なことをまとめると以下の4点になります。
世界的にワンヘルスが推進されるなか、国内では2013年11月に、日本医師会と日本獣医師会がワンヘルスの理念に基づく学術協力の推進に関する協定を締結し、連携してワンヘルス推進に関する国への要請等の取り組みを行ってきました。
地方自治体では、福岡県の取り組みが注目されます。同県は2016年11月に北九州市で「第2回世界獣医師会-世界医師会"One Health"に関する国際会議」が開催されたことから、ワンへルスの推進に取り組んできました。
2020年には議員提案により、全国で初めて「福岡県ワンへルス推進基本条例」が制定され、2022年には「福岡県ワンへルス推進行動計画」が作成されました。
図1に示すように、同計画は保健・医療・福祉の分野と環境の分野をつなぐ部分の計画として位置づけられています。その基本方針は「人獣共通感染症対策」「薬剤耐性菌対策」といった医療分野に限らず、「環境保護」「人と動物の共生社会づくり」「自然や動物とのふれあいによる健康づくり」「環境と人と動物のより良い関係づくり」といった動物の福祉や後に触れるワンウェルフェアの範疇も含めた、先進的な内容となっています。
図1 福岡県ワンヘルス推進計画におけるワンヘルス推進の位置づけ
出典)福岡県ワンヘルス推進計画より作成
ワンヘルスは、人間と飼育動物・野生生物の健康を中心としたワンメディソンの考えかたに、環境の保全の側面(環境の健康ともいえる)を追加した考えかたですが、人間の健康と環境の健康との関連との関連については、まだまだ検討が不十分な面があります。そこで、注目すべきは、自然生態系あるいは地球環境の問題と人間の健康と関連の焦点をあてた「エコヘルス」という考えかたです。ワンメディソン、ワンヘルス、エコヘルスの考えかたの対象範囲を図2にまとめました。
図2 健康と環境の統合に関する考えかたの対象範囲
出典)各種資料より作成
ワンヘルスの対象範囲では環境分野としては自然生態系を中心に扱いますが、気候変動等の地球規模の環境問題、あるいは社会環境、それらの根本にある社会システム・社会構造の問題といった側面まで統合すべき対象範囲を広げているわけではありません。ワンヘルスでは十分に扱っていない、エコヘルスとして扱うべき問題として、次の4点をあげることができます。
ワンヘルスの対象範囲も既に十分に分野横断的・学際的ですが、人間や動物の健康にとっては社会環境の側面も大きく、自然生態系にしても社会環境の問題とは不可分であるため、エコヘルスでは心理学や社会学、建築や都市計画等も含めて、さらに分野横断的・学際的であることが求められます。
ワンヘルスは健康という人間の権利の一部を動物や自然生態系との関連を捉えて、統合的に実現しようとするものですが、人間として保障されるべき権利は健康だけではありません。自由であること、生活の質を高めること、幸福を実現すること等も人間が保証されるべき権利です。
動物もまた生命権だけでなく、行動の自由権を持ちます。権利を広く保障することを目指し、人間と動物、環境の問題を一体的に捉えようとするのが、「ワンウェルフェア」の考えかたです。ワンウェルフェアは、満たすべき目標においてワンヘルスが拡張され、発展してきたものです。図2に示す"健康"という言葉を"福祉"に置き換えたのがワンウェルフェアだといって、差し支えありません。
ワンウェルフェアに関する団体を立ち上げたレベッカ・ガルシア・ピニージョス(R. García Pinillos、以下、レベッカ)が、ワンウェルフェアの枠組みを提案しています。この枠組みを筆者なりに整理したのが図3です。
図3 ワンウェルフェアの枠組み
出典)レベッカ・ガルシア・ピニージョスの資料等より作成
ここに示したように、ワンウェルフェアの枠組みには3つの側面があります。
1つは、「人の福祉が動物の福祉に影響を与える」という側面です。人の福祉が不十分な場合に、動物の虐待を行う人がいます。動物の虐待を行う人は人にも暴力をふるうことがわかっています。また、多数飼育を行って放置する「多数飼育崩壊」もまた人の福祉の悪い状態であるために発生します。数多くの動物たちがネグレクトされている状況では、当事者の人間にメンタルヘルス上の支援が必要なことが多々あるとされます。こうした負の作用を人の福祉を向上させることで断ち切っていくことが必要となります。
2つめは、「動物の福祉が人の福祉に影響を与える」という側面です。畜産動物の福祉により、人間の食の安全性が保たれ、農家も経営を安定させ、精神的なゆとりを得ることできます。また、幸せそうな動物を活用した人間の医療福祉プログラム(アニマルセラピー)を展開することができます。こうした正の作用をつくるため、動物の福祉を向上させることが期待されます。
3つめは、「自然生態系や環境が人の福祉と動物の福祉に影響を与える」という側面です。良い環境は人間と動物によい居場所を提供し、それぞれの福祉を向上させます。逆に、環境の開発や破壊等は人間と動物の福祉を低下させることになります。
海外の研究者によって枠組みが示されてきたワンウェルフェアですが、日本国内でも「一般社団法人ワンウェルフェア」が2021年2月に設立される等、新たな動きがあります。同法人は、多頭飼育崩壊をはじめとした人と動物の問題や課題について、動物愛護職と福祉職が集まって考える会として設立されました。同会のサイトでは、「ワンウェルフェアとは人と動物の幸せはつながっていること」と記しています。
また、レベッカのワンウェルフェアの枠組みでも、人の福祉のことを「ウェルビーイング」という言葉を使って表現しています。動物の福祉による人の福祉の向上は、基本的人権の保障に留まらず、それ以上のもの、すなわち人の幸福の実現につながることを視野に入れているためと考えられます。
このことから、ワンウェルフェアをさらに拡張して、「ワンウェルビーイング」という考えかたを展開していくことも考えられます。ペット動物とのふれあいは確かに人生に彩りを与えてくれるでしょうし、家族の関係の潤滑油となり、家族の幸福感を増幅してくれるでしょう。
また先に、ワンヘルスの考えかたにおいて、自然生態系あるいは地球環境の問題を重視し、エコヘルスという考えかたに展開することが必要だと記しました。この意味ではワンウェルフェアはさらに「エコウェルフェア」へ、さらにワンウェルビーイングは「エコウェルビーイング」への対象を拡張、発展させていくことが考えられます。
そして、自然環境だけではなく、社会環境や社会構造・社会システム等との相互作用も射程にしていくならば、「サステナブルヘルス」や「サステナブルウェルフェア」、「サステナブルウェルビーイング」といった考えかたにも発展させることができます。
少し言葉遊びのようになってしまいましたが、考えかたの展開イメージを図4に示しました。人の福祉と動物の福祉の一体性に焦点をあて、その統合的向上に対して、必要な手段を学際的あるいは分野横断的に検討していくことが必要であることは確かです。
図4 ワンヘルスやワンウェルフェアに関連する考えかたの展開イメージ
さて、人間と動物の福祉、さらには環境の問題の相互作用を踏まえて、問題を統合的に解決していくためにはどうしたらいいでしょうか。
今回のテーマに限らず、分野横断的なテーマの場合に必要なこととなりますが、①統合のための場づくり、②重点的な課題を解決するためのプロジェクトの推進、③教育プログラム・システムの構築、の3点をあげることができます。
「統合のための場づくり」としては、まず人間の福祉、動物の福祉、環境保全を統合する枠組みを整理し、関係者が集まる場をつくります。そして、目指すべき統合的なゴールを明確にし、それぞれの役割分担と連携の方向性を共有し、実践の推進体制を構築します。
「重点的な課題を解決するためのプロジェクトの推進」のためには、まず関係者のワークショップにより、枠組みの中で特に重要な課題を明らかにして、それを解決するための目的を明確にしたプロジェクトを立案することになります。
「教育プログラム・システムの構築」としては、統合的なアプローチを学ぶための教育プログラムを作成するチームを設置し、プログラムの試行と評価・普及を図るようにします。高校の探究においてワンウェルフェアをテーマとすること、大学では医療、保健、福祉、環境、都市計画、建築、農学、経営、教育等の異なる学部を横断するカリキュラムを構築すること等が考えられます。
重点的なプロジェクトとしては、一般社団法人ワンウェルフェアが実践しているような動物の虐待、多頭飼育崩壊の解決やアニマルセラピーに対する対策があります。動物愛護、社会福祉の関係者のみならず、保健や医療等の関係づくりが重要です。
また福岡県では、ワンヘルスを象徴する「ワンヘルスの森」を整備しています。これは既存の森を活用するもので、「人と動物の健康と環境の健全性は一つ」という理念を自然の中で実感し、ワンヘルスに対する理解の促進と心身の健康づくりにつなげるものです。
さらに、福祉やウェルビーイングの視点を強調し、森だけでなく農的な暮らしを取り込むことで、「ワンウェルフェアの森」や「ワンウェルビーイングの里」等を構想することもできます。企業が社会貢献活動として共創に乗り出すことにも期待したいと思います。
日本的自然観を取り入れた人間と動物の福祉の統合方向についてもとりあげる予定でしたが、今回はここまでとします。
次回は、人間の福祉の中でも「子ども」という脆弱者に焦点をあてていきます。