2024年10月15日
今回は、先住民族、とりわけ日本におけるアイヌという脆弱者をとりあげます。
日本は世界でも珍しい単一民族国家だという教育を受けてきた人も多いでしょう。しかし、それは明らかな間違いで、日本にはアイヌという先住民族がいます。
和人(アイヌ以外の日本人)はアイヌの住んでいた土地を開発し、アイヌの文化とアイヌが大切にしていた自然を破壊してきました。最近ではアイヌの復権を図る対策が取られてきたとはいえ、今日もアイヌの人々は和人から差別的な扱いを受けているという報告があります。
アイヌの人々は和人とは異なる文化を持っており、アイヌ文化に関する多くの研究や啓発の書籍があります。和人はアイヌ文化から多くのことを学ぶことができます。そして、環境問題を引き起こしてきた和人文化のありかたを、アイヌ文化を通して見直していく必要があります。
和人が知るべきこと、そして深く考え、根本的に改めるべきことをまとめていきます。
2022年11月に内閣府が実施した「アイヌに対する理解度に関する世論調査」(有効回収数 1,602人)では、「アイヌの人々や文化と接しことがありますか、それともないと思いますか」という質問に対して「ある」と回答した人は約21%、「ない」とした人が約71%となっています。
この回答には地域差があり、「ある」とした人は北海道では約50%であるのに対して、関東は約27%、北陸は約8%、九州は約12%となっています。アイヌが暮らしていた(いる)のは北海道が中心であったため、地域差があることは当然ですが、北海道でさえ約44%の人が接する機会がなかったとしています。
それだけアイヌの人々の和人への同化が進み、アイヌ文化が見えにくくなっています。また、アイヌだと名乗らない人が増えているとも考えられます。
一方、「アイヌの人々に対して、現在は差別や偏見があると思いますか、それともないと思いますか」という質問については、「ある」約21%、「ない」約29%で、「わからない」が約50%を占めます。
少しさかのぼりますが、2016年の世論調査では国民全般とアイヌの人々の調査の両方を実施しています(図1参照)。国民全体で「ある」とする回答は18%であったのに対して、アイヌの人々の回答は約72%となっています。このギャップ、すなわち「差別や偏見があるのに和人は知らないでいる」ことに大きな問題があります。
なお、国民全体の調査で2022年と2016年を比較すると「わからない」とする回答が増えていることも注視すべき点です。
図1 アイヌに対する差別や偏見の有無
出典)内閣府の世論調査より作成
さらに、アイヌの人々は差別や偏見を受けているとした理由や自分が実際に差別を受けている内容の回答結果を抜粋します。
アイヌの人々が差別や偏見を受けているとする理由 【差別や偏見が「あると思う」と答えた者(508人)の回答】
アイヌの人々が受けている具体的な差別の内容 【「自分が差別を受けている」と答えた者(186人)の回答】
アイヌへの差別や偏見が残っているにも関わらず、和人が知らないでいる原因は、アイヌの人々を日本国家に編入し、「同化」を進めてきた明治政府以降の政策にあります。公益財団法人アイヌ民族文化財団「アイヌ民族~歴史と文化」の資料より、和人がアイヌを支配してきた歴史をまとめます(抜粋を要約)。
このように、日本という国家が、アイヌの人々を支配し、土地を奪い、強制的に国家に組み入れ、人々の暮らしや文化を抑圧し、差別的に扱ってきました。日本に「同化」をさせられてきた結果、今日では差別や偏見は見えにくくなっています。
また、アイヌの人々は社会に差別や偏見があるから、アイヌであることを名乗れないでいる場合があり、このことも問題を見えにくくしています。和人は意識して、過去の歴史的事実があること、そして今日もアイヌの人々が差別や偏見を受けていることを知らなければいけません。
SDGsにおける「社会的包摂」とは、自分達と同じ文化や価値観への「同化」を求めることではありません。そして、差別や偏見が見えにくくなっていることに気づかず、表面的に仲良くすることでもありません。異なる人々のことを意識してよく知り、過ちをあらため、文化や価値観の違いを尊重し、対等な関係を持つことであるはずです。
アイヌの人々の復権に向けた政策が本格的に動きだしたのは1990年代年以降のことです。明治時代に、アイヌの人々の困窮を救うために「北海道旧土人法」が制定されましたが、それは奪っておいた農地を下付(かふ、役所から人民にさげわたすこと)する政策をとるものでした。また、日本語や和人の習慣を教育する「同化」を促す(すなわち、アイヌ文化を奪う)政策が取られました。
1997年には「北海道旧土人法」が廃止され、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(略称:アイヌ文化振興法)」が制定されました。この法律の狙いは、その名称の通り、アイヌ文化の振興に限定されたものでした。
さらに2000年代に入ると、国連で先住民の権利に関する宣言(後述)が出されたこともあり、日本国内でもアイヌ民族を先住民族と認める国会決議がなされます。
そうして、ようやく2019年に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(略称:アイヌ民族支援法)」が制定されましたが、ここに至るまであまりに時間がかかっています。アイヌの人々の粘り強い訴えがあったにもかかわらず、日本政府、そして和人である私たちは何をしていたのでしょうか。
アイヌの人々の復権にいたる歴史を表1にまとめました。
表1 アイヌの人々の復権への動き
出典)公益財団法人アイヌ民族文化財団「アイヌ民族~歴史と文化」等より作成
アイヌ民族支援法の第三条基本理念では、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重、自発的意識の尊重という考えかたを示しています。さらに、3項として、「アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて全国的な視点に立って行われなければならない」と書かれています。アイヌの人々は北海道だけに居住しているだけでなく、全国にちらばっていることを知ることが大切です。
現在、北海道内の市町村が調査対象者として把握しているアイヌの人々の人数は約1万3千人とされます(北海道庁2017年調査)。北海道以外では、東京都が1989年に調査し、都内に2,700人が居住していると推定しています。中部や関西地方に居住するアイヌの人々もいるとされますが、正確な人口が把握されていません。これらの調査は「アイヌ民族だと名乗っている/見なされている」という基準で行政が把握している人の数です。アイヌであることを隠している、またアイヌであることを知らされていない人もかなりいると考えられます。
アイヌの人々の復権の動きの象徴的な出来事として、二風谷ダム裁判があります。
二風谷ダムは、川の治水と下流にある苫小牧東部工業地帯への工業用水の供給等を目的として、1973年に計画され、1997年に完了しました。この長い年月の間に、ダム建設に反対するアイヌ関係者2名による「二風谷ダム建設差し止め訴訟」がありました。二風谷は古来よりアイヌの人々が暮らし、自然の恵みを得ることでアイヌ文化を色濃く継承してきた地域です。
訴訟を起こしたひとり、貝澤耕一氏は共著「イランカランプテ アイヌ民族を知っていますか?」の中で、「私たちアイヌ民族は、今は違いますが、もともとは狩猟民族で、周りの山の野山から生活のほとんどを『いただいて』生きてきた民族」で「それがアイヌ民族の精神文化である」とし、だからこそ「巨大ダムを作って、環境、地形を変えることはまかりならん」と反対闘争が起こったと記述しています。
アイヌ文化の聖地の重要性とともに、このダム開発の問題は開発過程でアイヌ民族の声を聞かなかったこと、貧しかったがゆえにアイヌの人々がダム開発のために土地の買収に応じていったという点にあります。
貝澤氏は、明治政府によってアイヌは土地を奪われ、旧土人保護法により農地を与えられ農業への転向を強いられ、それゆえ貧しい(金銭的なことだけでなく)暮らしとなっていた、と指摘しています。
豊かな農地は本州からの移住者に与えられ、アイヌには残った土地が与えられ、経験のなかった農業をやって、豊かに暮らせるわけがありません。もともとのアイヌの土地が奪われたあと、貧しい土地を押しつけられ、なんとか暮らしてきたわけですが、さらに土地を買いたたかれ、大事にしていた山はダム開発でなくなっていくというのですから、たまったものではありません。
1997年の裁判の判決では、アイヌ民族の北海道における先住性を認められ、文化享受権の侵害という点で二風谷ダムの建設にかかる土地収用は違法である、と認められました。開発に伴う環境影響調査で自然の調査はしてきましたが、アイヌの文化や歴史、遺跡に関する調査はされておらず、アイヌ文化やアイヌの人々の権利を明らかに軽視していました。
ダムは完成してしまいましたが、判決を受け、二風谷ではアイヌ文化を継承するための施設が整備され、重要な文化継承と学習の地となっています。
二風谷ダムの裁判で注目されたアイヌ文化は、アイヌの人々の精神的な拠り所あるいは誇りであるとともに、自然との共生という観点から学ぶべき点が多い文化です。アイヌ文化を象徴する2つのことを説明します。
まず、「イオマンテ」というクマ祭りです(クマの霊送りともいわれます)。アイヌ民族博物館慣習「アイヌ文化の基礎知識」により、イオマンテの流れを説明しましょう。
アイヌの人々は冬に親子で穴ごもりをしているクマを狙ってクマ猟をします。クマの親子で穴ごもりをしていると、親グマだけを狩り、子グマは里に連れて帰ってコタン(アイヌの人々の村)で餌を与え、大事に育てます。
子グマは1~2年ほどした後、魂を先に送った親グマの住む国、すなわち神の国に送り返します。子グマを弓矢あるいは鉄砲で撃ったあと、コタンの人々が大勢集まり、酒宴を行い、伝統舞踏を行って子グマの魂を客人としてもてなします。そして食料や酒、太刀等のおみやげものを持たせて、客人の親・兄弟が住む神の国に旅出させます。この一連の儀式がイオマンテです。
大事に育てた子グマを殺す場面だけをとりあげると暴力的で野蛮な祭りに見えてしまいますが、自然の恵みを大事にし、神の化身である子グマを大事にし、神の国に返すという考えかたは生命を尊重し、自然と一体的に生きるアイヌ文化の象徴だといえます。
現在の私たちは、牛や豚、鶏の肉を食べますが、動物が殺される場面を知らずにいるだけで、生命をいただいていることに変わりはありません。そして、亡くなった生命に感謝することなく、生命をモノのように扱っています。いただく生命に感謝するアイヌ文化と、生命を奪うことを見えないようにしていて感謝をしない和人の文化と比較すると、どちらが暴力的で野蛮だと言われるべきでしょうか(図2参照)。
図2 アイヌと現代社会(和人)の食肉・自然との関わりかた
次に、「ほっちゃれ」というサケの呼称をとりあげます。
アイヌの人々は川沿いに暮らし、サケ漁をよくしていました。捕獲する対象のサケは「ほっちゃれ」と呼ばれる産卵後のサケを中心としたとされます。産卵をさせることで資源枯渇を防ぐという意味と、産卵後は油が抜けていて保存食にしやすいという意味があったとされます。また、捕ったサケは身を食べるだけではなく、頭、目玉、はらわた、ひれまで、すべてをいただきます。
明治に入り、和人はアイヌのサケ漁を禁止しました。アイヌの人々は自然の恵みへの畏敬の念と資源保護の知恵を持っているにもかかわらず、和人は自分達の価値観でアイヌ文化を否定し、大事な生業を奪ってしまいました。
アイヌ文化の豊かな精神性や自然と対峙する伝承の知恵は、他にも様々な側面でみられます。ぜひアイヌ文化に関する多くの書籍を参照してください。
アイヌ文化が縄文文化を継承しているという歴史を知ると、アイヌ文化の固有性や価値をさらに感じることができます。
縄文文化は自然からの採取・狩猟を行い、弥生文化は農耕を行う文化だといわれます。しかし、縄文遺跡から中耕除草用の石器が出土しており、サトイモや陸稲等を栽培していたともされます。
弥生時代への移行は、約2,300年前の大陸からの渡来人の流入によるものです。それに伴い水稲栽培が持ち込まれ、青銅器や鉄器等の金属器も使われるようになりました。水稲は栽培効率がよく栄養価が高いため、食料供給において優れた作物です。このため、水稲は九州から日本全体(北海道を除く)に普及し、人口が増えていきます。
しかし、弥生時代になって人々の格差が生まれ、階級性社会が築かれるようになりました。この理由として、2つの側面があります(広島大学デジタル博物館の考古学のサイト等を参照)。
ひとつは、稲作が水の管理において人々の協力を必要としたこと、また耕作を行う土地に人々を定着させたことで、皆を守るリーダーの存在が重要となり、リーダーを中心とした組織がつくられることになったことです。
2つめには、土地条件による格差の拡大です。稲作を行ううえでの条件が良い地域とそうでない地域の間に貧富の格差が生まれました。また、鉄器、青銅器やその素材など生活の実用品や宝器的な文物を入手できる手段(交通や蓄積等)を持つ者と持たない者による格差も生まれました。
その後、農耕社会を基盤として直接農業を営まない貴族や武士がうまれ、階層性社会はさらに強固なものとなりました。さらに時代がすすみ、産業革命を基盤とする工業化・都市化、グローバル化が進むと、経済活動の規模と速度が飛躍的に拡大し、冨の所有の違いによる格差がさらに大きくなり、現在に至っています。
縄文時代はよかったと手放しにいうわけではありませんが、自然と人との共生という点でポジティブに捉えるべき縄文時代の特性があったこと、弥生時代以降の社会の発展はネガティブな面を含むことを認めておきたいところです。
そして、水耕伝播の影響を受けずにきたのがアイヌの人々です。水稲は気象条件等から北海道には伝搬せず、北海道の縄文人と渡来人の混血も進みませんでした。日本で約12,000年前から約2,300年前まで1万年以上も続いた縄文文化の継承者であるアイヌの人々こそ、縄文時代とつながる日本の先住民だといえるのではないでしょうか。そして、弥生時代以降のネガティブな側面を内包する発展をしなかったという点でも、価値のある文化だといえます。
「伝播は距離が遠いところには届かない」という傾向があります。その意味で、水耕栽培の伝搬は北海道に届かなった面もあり、それと同様に沖縄(琉球)にも届かなかったという説があります。アイヌの人々と琉球の人々は遺伝子や文化で共通点が多いとされますが、どちらも弥生文化の周縁であったためと考えられます。周縁だから遅れているのではなく、周縁に歴史が継承されていて、中心に毒されていない(ネガティブな面の伝搬がない)価値を持つ、ということができるでしょう。
図3 弥生文化の伝搬と周縁での残存(アイヌ文化へ)
先住民族は世界の各地におり、世界中で約3億人、70ヵ国以上に居住しているとされます。
アメリカ大陸のインディアン、北極圏のイヌイットやアリュート、北ヨーロッパのサミ、オーストラリアのアボリジニ、ニュージーランドのマオリ等が代表的な先住民です。また、ボリビアの60%、グアテマラやペルーの半数、中国・インドでも1.5憶人、ミャンマーで1,000万人が先住民族だとされます。
日本において、和人が先住民族(アイヌの人々等)を支配し差別をしてきたように、ヨーロッパの先進国は世界各地に植民地を求めることで先住民を支配してきました。
国連人権小委員会は、1982年に先住民族作業部会を設置し、1992年の地球サミットでは先住民族は自分たちの土地、領土、環境が悪化していることに懸念を表明しました。国連の先住民族作業部会にはアイヌの代表も参加しました。
そして2007年、国連総会で「先住民族の権利に関する宣言(Declaration on the Rights of Indigenous Peoples)」が採択されました。この宣言は、先住民族の基本的人権とともに、先住民族の制度・文化・伝統の維持・強化を行う権利をうたい、先住民族に対する差別の禁止、先住民族に関係することへの先住民族の参加促進を記すものとなりました。
さて、子どもの権利委員会による「気候変動に焦点をあてた子どもの権利と環境に関する一般的意見26」の解説(本連載第10回)に示したことと同様、ここでも環境問題が先住民族の権利を侵害する2つの側面があります。
ひとつは気候変動等の環境問題は脆弱性の高い先住民族の権利の侵害となること、もうひとつは先住民族の環境問題解決への参加の権利が発揮されていない問題があることです。
先住民族の伝統的な暮らしはアイヌに限らず、自然と直接対峙するものであり、気候変動等による自然破壊は先住民族の伝統的な暮らしを著しく侵害します。また、気候変動等の環境問題の教育が不十分なこともあり、先住民族が問題解決のための計画や実践になかなか参加できないのではないでしょうか。
先住民族は数としてマイノリティであること、環境問題よりもまずは自らの権利の獲得や福祉の向上を図ることに時間を取られる状況にあることも、先住民族の参加を阻害しています。
今回は、アイヌ民族の視点から環境と福祉の問題を取り上げました。
アイヌ民族の問題の特徴は、アイヌの人々から土地を奪い、支配し、長い間、復権の取り組みが遅れてきたという和人による差別の歴史にあります。また、今日も残存する差別や格差の問題が不可視化されやすいことも特徴です。意識して、アイヌの人々の暮らしや文化の歴史を学び、アイヌの人々の思いを知り、和人の行いと向き合う姿勢が必要です。
アイヌの人々を知ることで見えてくる、環境問題への示唆を6点にまとめます。
もちろんアイヌの人々だけでなく、世界各地の先住民族についても実態を知り、世界的な視野から先住民族を支配してきた先進国の歴史を考える必要があります。
また先住民族の差別、人種差別(レイシズム)のこと、先住民族の住む土地に有害廃棄物の処分を押し付けてきた不正義の問題など、関連してとりあげるべきことがまだまだありますが、今回はここまでとします。
次回は、障がい者の視点から環境問題を考えます。