2024年11月26日
「障がい者」とは、心身が不自由な人のことではありません。個人の状態と社会の状態の相互作用により、日常生活や社会生活を妨げる障壁(バリア)が生じている人が障がい者です。
車椅子に乗る人も、車椅子を使って不便なく、生活を行うことができれば、その人は障がい者ではありません。逆に、身体に不自由なところがない人も、道に段差が多く、舗装もされておらず、まともに歩くことができないという環境に暮らしていれば、障がい者になります。
社会の側のバリアが問題で、それを無くすという考えかた(「社会モデル」)は、2021年に改正された「障害者差別解消法」の基本方針となっています。障がい者福祉における社会モデルは、こども、高齢者、ジェンダー、先住民等の他の脆弱者への福祉にも当てはめることができる、重要な考えかたです。この他、障がい者福祉に関連する重要な考えかたとして、バリアフリー、ユニバーサル、ノーマライゼーション、インクルーシブ等があります。
今回は、障がい者福祉の分野の考えかたを整理し、それをふまえて福祉と環境の統合の方向性を考えていきます。
なお、本稿では「障がい」、「障がい者」と表記します。「障害」の"害"という漢字を不適切だとする声があること、また「障碍」は中国、韓国、台湾で使われているが日本ではなじみがないことが理由です。国の制度や法律名が「障害」とある場合はそのままとしています。
世界保健機関(World Health Organization:WHO)では、世界では13憶人が重大な障がいを経験していると推定しています。 これは世界人口の16% 、 6 人に 1 人に相当します。また、同機関では次の事実を報告しています(一部、抜粋)。
やや古い資料になりますが、WHOの「障害に関する世界報告書」(2011年)では、世界の障がい者の状況について、次の点を報告しています。
障がい者の存在の身近さ、障がい者の不利益(健常者との格差)、障がいと他の側面での脆弱性(貧困、高齢者、女性等)との関連(問題の交差性)を知る必要があります。
日本国内ではどうでしょうか。
内閣府によれば、国民の9.2%がなんらかの障がいを有しているとされます。うちわけでは、身体障がい者436万人、知的障がい者110万人、精神障がい者615万人となっています。また、(世界も傾向と同様に)日本でも障がい者の数は増加傾向にありますが、この理由として3点が考えられます。
1つは、高齢者人口の増加が進行していることから高齢の障がい者が増えています。高齢者の加齢による足腰の機能低下、痴ほうの発症等を完全に防ぐことに難しく、今後も高齢の障がい者は増えて続けると考えられます。
2つめは、景気低迷や物価上昇、人間関係の希薄化等により、生きづらい社会となってきており、精神的なストレスが大きくなっていることが考えられます。化学物質による、原因が解明しきれていない環境汚染の影響もないとは言い切れません。
3つめは、障がい者として申請する人が増えていることです。これは、障がいに関する意識の高まりでもあり、その意味では悪い傾向ではありません。
リスクに晒されている社会において、誰もが災害や汚染等の被害を受ける可能性はあります。また、医療が進歩しても加齢による身体や知能、精神の機能低下は避けれないところです。誰もが障がい者となりえる(潜在的な障がい者である)と受けとめ、障がいを自分事として考えることが求められます。
貧困と障がい者の関係も世界と同様の傾向にあります。
障がい者が通う事業所等の全国組織「きょうされん」は、2023年に障がい者5千人以上を調査した結果、貧困状態に相当する収入(年収127万円以下)の人が78.6%に上ったと発表としています。2015年の調査では81.6%で、ほとんど改善が見られていないことがわかります。生活保護の受給者は障がい者の11.5%で、国民全体に占める同受給者の割合の1%台を大きく上回りました。
障がい者が教育や雇用から排除され、貧困状態となり、さらに心身の健康状態を損なうという連鎖を図1に示します。障がい者本人だけでなく、障がい者が家族の介助に依存せざるを得ない状況が家族にも不利益をもたらすことがわかります。
図1 障がい者にとっての問題の連鎖
目が見えない方が世界をどのように見ているか、耳が聞こえないというのはどういうことなのか、発達障害の方が見ている世界はどのようなものなのか。それを想像する力が健常者に求められます。健常者は障がいがある人の声を聴く姿勢が求めれます。
内閣府では、障害のある方(障害のため自らの意見を表明することが難しい場合は、本人の意見を代弁できる身近な方)の障がいの内容や必要な配慮について特に知ってほしいことを調査し、とりまとめています。2004年の調査で少し古いですが、貴重な資料ですので、一部を抜粋します。
視覚障がい、聴覚・言語障がい、肢体不自由、内部障がい、知的障がい、精神障がい、発達障がいの別にまとめられていますが、ここでは一例として「精神障害」の方の声をとりあげます。数字は回答数と回答率です。
「障がいだけを見るのではなく、一人の人間として全体像を見て」、「自分の周りにいる障がい者のイメージで障がい者一般を考えないで」という声もあがっています。"ステレオタイプ"に人を捉えないこと、そして目の前にいる人を唯一の存在として大切にすることは、誰に対しても求められる基本的なことです。
私の手元には、ある方からいだいた「知ることは、障がいを無くす。」という本があります。健常者が当たり前に思っていること、あるいは理解しないでいることが障壁となって、障がい者を生きづらくしている、という「無知の知」が大切だと教えられます。
冒頭に社会の側の障壁が障がいをもたらすという「社会モデル」の考えかたを示しました。これが強調されるより前には、個人の側の心身の機能が障がいをもたらすという「個人モデル」の考えかたが主流でした。
これは、医学による個人の心身の障がい(異常)を治すということでもあり、「医学モデル」とも言われます。また、個人の心身の機能と社会的障壁の両方が相互に関係しあって、障がいを規定するという「統合モデル」という考えかたもあります。3つのモデルの関係を図2に示します。
図2 障がいを説明する「個人モデル」と「社会モデル」
今日、「社会モデル」が重要だとされてきた理由として、3点をあげます。
第1に、個人の心身の機能は治療によって改善される場合もありますが、医学によって改善できるものばかりはでないことがあげられます。また、治療を受けなければならないことが障がい者のプレッシャーになってしまいます。
第2に、個人の心身の機能を治療の対象とすることは、その機能の障がいを異常、あるいは欠陥、病気とみなしていることになるという問題意識が提起されてきたことです。障がいを異常とみなす自体が障がい者への差別になってしまいます。
第3に、介助者とともに自立した暮らしを行う障がい者が増え、バリアフリーによる空間整備やユニバーサルデザインの考えかたや実践が定着してきたことがあります。社会の側の障壁の解消により、障がいを感じることなく暮らすことができると実証されてきました。
ここで、障がいを生む社会の障壁(バリア)は道路の段差等といった物理的なものだけでないことに注意する必要があります。ハードウエア、ソフトウエア、ヒューマンウエアのそれぞれに、障がいをもたらすバリアがあります。
ハードウエアとしてのバリアは、家の中や外での移動に障壁となる段差、誘導用の案内の不十分等のことです。ラッシュアワーに車椅子での外出が困難なことを考えると都市における密集もまたハードウエアとしてのバリアです。過疎地において、鉄道やバスの交通インフラが整備されていないことも、移動の基盤となるハードウエアの欠如です。
ソフトウエアとしてのバリアは、制度や仕組み、あるいはサービス、情報へのアクセスや利用のしにくさにあります。学校医の問題、就職や資格の試験で障がいがあることを理由に合格できなかったりすることなどがこれにあたります。盲導犬を連れていると入店できない店があることも、サービスとしてのバリアです。
ヒューマンウエアは、障がいを持つ人のまわりの人間関係や人の意識のことです。差別や偏見がヒューマンウエアとしてのバリアです。先に示したような障がいを持つ人のことを良く知らない、知ろうとしない健常者が多いこともバリアとなっています。
次に障がい者福祉において重要なバリアフリー、ノーマライゼーション、ユニバーサル、インクルーシブの考えかたを整理します。
平たくいえば、バリアフリーとは障がいを生む社会の障壁(ハードウエア、ソフトウエア、ヒューマンウエア)を取り除くことです。それによって、障がいがなく当たり前の生活を送れるようになることがノーマライゼーションです。また、障がいがあってもなくても暮らしやすくすることがユニバーサル、障がいがある人も排除されないようにすることで多様性のある魅力的な共生社会を作るのがインクルーシブ、ということができます。
ノーマライゼーションを実現する手段がバリアフリーで、これらは福祉(ウェルフェア)、すなわち基本的人権の保障を目指すものです。これに対して、ユニバーサルやインクルーシブは、ノーマライゼーションに留まらず、健常者あるいは社会全体としてより魅力的な社会(ウェルビーイング)の実現を目指すものと整理することができます。
これらの用語の定義は、根拠となる法律等によって様々ですが、障がい者福祉の射程は障がい者の幸せだけでなく、健常者も含めた共生による誰もが幸せな社会の実現であるというビジョンを共有したいところです。
図3 障がい者福祉に関するキーワード
さて、障がいの問題と環境問題との関係を整理します。まず、近年の国連の動きです。
この連載では、気候変動と子どもの権利、気候変動とジェンダー等について、国連が意見や方針をまとめていることを示してきました。同様に、障がい者についても気候変動とに対する脆弱性が取り上げられてきています。
丸山啓史さんが「障害者と気候変動」に関する研究レビューを作成しています(発達障害研究、2022 年 44 巻 1 号 p.100-108)。この文献をもとに、気候変動に関連することをまとめます。
表1に、障がい者に対する気候変動の影響の多様な側面をまとめました。気候変動の影響自体が多分野で広範囲に及ぶわけですが、それぞれの影響が障がい者(あるいはその家族)にとってより深刻だといえます。また、障がい者は気候変動に対する適応におけるバリアがあるという点が重要です。適応策を障がい者の視点から見直していく必要があります。
表1 障がい者に対する気候変動の影響
高温化に対する障がい者の脆弱性については、次のような研究成果があります。
気候変動対策への障がい者の参加が不十分な点については、次のような批判がなされています。
気候変動以外の環境問題、たとえば廃棄物、水質汚染、大気汚染等についても、障がい者は影響を受けやすい状況に置かれており、それらへの対策にバリアがあると考えられます。
最後に、障がい者問題の根本にある問題と環境問題との関係をとりあげます。
障がい者問題の根本に関連して、筆者の胸の中には、大学生の時に言われた「健常者は生まれながらに差別者だ」という言葉があります。当時、脳性麻痺の方々の介助のボランティアをしていた私につきつけられたのが、この言葉です。優生保護法の持つ優生思想の問題を指摘する言葉でした。
優生保護法の目的は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」にありました。この優生上の見地(優生思想)が障がい者差別につながります。今いる障がい者にとっては、自分達は生まれてこなかった方がいい存在だと見なされていることになります。
障がい者の介助を一生懸命やるのはいいが、障がい者はできるならば生まれてこない方がいいと考えているのではないか、そうした問いがつきつけられたわけです。
優生思想をもう少し説明します。優生思想は、優れた民族的な特徴を維持するため、結婚制限や隔離、断種等により望ましくない遺伝的要因を排除し、優良な人々を残すべきという考えかたで、障がい者はいない方がいい存在とする思想です。
この思想を反映した優生保護法では、障がい者の生殖を不能にさせる手術(優生手術)を認めており、実際に、本人の同意なく手術が行われていました。1996年に優生保護法は廃止されて母体保護法となり、母体の健康と生命の保護が主な目的になりましたが、今日でも優生手術を受けた人々の訴訟が続いています。
また、1970年代前半には、優生保護法をさらに改悪しようとする動きがありました。この改悪の1つが、胎児が重度の精神又は身体の障害の原因を有するおそれがある場合中絶を認めるという「胎児条項」の導入でした。
優生保護のための手段として、優生手術だけでなく、障害を理由に胎児中絶を許すという改悪がなされてようとされたわけです。障がい者や女性の反対運動もあり、この改悪は廃案になりました。
この改悪の背景に、戦後の環境問題があります。当時は環境汚染あるいは薬害により、障がいをもった子の出生が相次ぎました。福祉の充実が求められる一方で、福祉コスト削減のため障がい児の発生防止の声が高まっていたことが、胎児条項の提案になったという指摘もあります。
環境問題の被害を防ごうという環境対策が、障がいがない方がいいという優生思想に基づいていることに気づかずにエスカレートしたのが、1970年代の優生保護法の改悪提案でした。
こうした経緯を考えると環境問題対策と障がい者福祉はトレードオフの関係にある、ということになりますが、それは表層的なことです。
より根本を考えるならば、経済成長至上主義や効率優先の考えかたが環境問題の根本にあることで、その考えかたは障がい者を劣位に見なしています。この根本の考えかたの問題に踏み込まないと、環境問題対策と障がい者福祉のトレードオフは解消できないのではないでしょうか。
「健常者は生まれながらに差別者だ」という言葉があったから、私は現在、環境と福祉のWEB連載、あるいは大学での環境福祉学の講義を行っています。健常者が当たり前に思っていることを批判し、障がい者等の脆弱者の視点から環境問題の本質を問い直していくことができればと願っています。しかし、健常者は自己を否定し懺悔の気持ちを持っていこう、ということを言いたいわけではありません。
私が現在、注目している活動に「目が見えない人の絵画鑑賞」というワークショップがあります。目が見えない人に複数の健常者が絵画を説明するというもので、健常者の説明を目が見えない人が楽しみ、健常者も絵画を説明することを通して気づきを得ることができます。
このように、障がい者と健常者がそれぞれを活かしあって、楽しみをともにする工夫を行うことで、相互理解と内省による成長が得られ、誰もが幸せで豊かな人生を送ることができる社会をつくることができるはずです。
次回は、労働者の視点から環境問題を考えます。