2025年04月25日
本連載の第2回から第16回目までは、消費者、労働者、高齢者、子ども、ジェンダー、先住民、障がい者、農山漁村、開発途上国といった脆弱者の視点を取り上げてきました。脆弱者の視点から環境問題を捉え、脆弱者の福祉の向上になるように環境対策に取り組むことが、(環境面から)環境と福祉の統合を図ることになります。
そしてこの際には、脆弱者の視点をどれだけ重視して(どのように考慮して)環境対策に取り組むか、どのような考えかたや基準で判断していくかが問題となります。いくつかの例を示してみましょう。
このように、脆弱者の視点から環境と福祉の統合を考える際、脆弱者とそうでない者の利害の対立や格差、不公平などを解消するための正しい判断が必要になります。その正しい判断をすることが「正義」であり、今回のテーマです。環境問題全般における正しさが「環境正義」であり、気候変動の問題における正しさが「気候正義」です。
環境正義を考える際の道具となる用語として、「平等(equality)」、「公平(equity)」、「公正(fairness)」があります。これらは正義を考える際の規範となるもので、それぞれ似ていますが異なる意味を持ちます。図1に用語の説明と具体例を示しました。
平等、公正、公平は、いずれも格差のある状況や分配の偏りを是正する際の考えかたです。
平等は同じものを提供して格差などを是正すること、公正は同じルールを適用して格差などを是正すること(提供するものは同じになるとは限らない)という違いがあります。これに対して公平は、同じものの提供や同じルールの適用にはこだわらず、対象の状況に応じて、調整を行うことです。
具体例としては、生活支援の給付金の場合を示しています。
全世帯一律の給付は平等の考えかたを基本としていますが、たとえば一律10万円給付の場合、10万円の価値は年収1000万円の人よりも年収100万円の人にとって大きく、結果として公平であるともいえます。
ややもすると平等と公平を比較すると公平のほうが望ましいと思われます。しかし、形式的な平等が結果として公平となることを、あるいは結果としての公平が誰もが納得できるものであることが難しいことを考えると、公平よりも平等というシンプルな考えかたに分があります。
このように平等と公正のいずれかを重視すべきかの判断に難しさがあるため、丁寧な説明と調整を行って納得を得ていく公正の考えかたが必要になります。
平等、公平、公正の規範に基づき、格差や分配の偏りを正し、福祉の分配の最適化を図ることが「分配の正義」です。
図1 平等、公平、公正の違い
分配の正義は、平等、公平、公正といった規範の重視のしかたや焦点となる側面の違いによって、「手続き論的正義(プロセスの公平を重視)」「結果論的正義(分配の結果を重視、平等・公平のいずかれの規範に関連)」「関係論的正義(対話と合意を重視、公正に対応する)」の3つに分けることができます。それぞれの正義を提起した思想家がおり、その背景となる思想潮流があります。
思想家の説明は割愛しますが、正義の分類と思想潮流との関係を記しておきます。手続き論的正義は公正なルールのもとでの自由競争を尊重する自由至上主義(リバタリアニズム)の思想に基づくもので、小さな政府による正義を目指します。これに対して、結果論的正義は国家が分配による格差是正を進めるべきという進歩自由主義(リベラリズム)の思想に基づき、大きな政府による正義の実現を目指します。関係論的正義は共生主義、すなわち参加型民主主義に基づく正義を目指すものです。
さらに、分配の正義とは別の2つの正義があります。全体の福利の最大化を図る「全体としての正義」、人としての正しいありかたを目指す「人としての正義」です。全体としての正義には「功利主義的正義」があります。これは最大多数の最大幸福を基準とするもので、脆弱者とそうでない者の利害の対立や格差、不公平などの解消への配慮はされず、むしろ、それらを増大させる場合もあります。"功利主義的正義は脆弱者の視点を軽視する点で正義ではない点で正義ではなく、単なる功利主義"というべきかもしれません。
人としての正義には「義務論的正義(法的な義務として個人に正義を求める)」と「徳利論的正義(正義を担い人徳を高める)」があります。これらは、社会の状況を改善するための手段として分配の正義や全体としての正義とは異なり、人の善きありかたを実現することが目的になります。
以上の整理を図2に示します。ここで示した正義の考えかたの分類は筆者なりのもので、異なる解釈もあることに注意が必要ですが、正義の考えかたに多様性があるのは確かです。そして、それぞれの正義には長所短所があります。筆者は脆弱者の視点に立つならば、対話による公正の確保と脆弱者との関係づくりを重視する関係論的正義の立場が望ましいと考えます。
図2 正義の視点と正義の類型、思想潮流
正義の考えかたの整理をふまえて、環境正義に関する運動や議論、政策の具体的像を示します。取り上げたのは以下の4つです。
1と2は、どちらもアメリカでの環境問題への反対運動で用いられた環境正義の考えかたです。
1は、1980年代のアメリカにおける有害廃棄物処理施設の立地問題です。当時の米国では、アフリカ系やメキシコ系、先住民アメリカ人の居住地域に、PCBやDDTなどの有害廃棄物処理施設がつくられていましたが、これに対して配分の不正義を訴える「環境正義運動」が発生しました。
その象徴が1982年のノースカロライナ州のウォーレン郡のアフリカ系コミュニティに建設されたPCB廃棄物処分場への反対運動です。1980年代の動きを経て、1991年に「第1回全米有色人種環境リーダーシップサミット」が開催され、1994年にはクリントン大統領による環境正義のための「大統領令12898号」が公布され、少数人種の居住地区における化学工場の集中などが規制されることになりました。こうした環境正義運動は、環境問題・環境対策における人種差別に力点があります。
2は、アメリカのCHEJ(Center for Health, Environment and Justice:健康・環境・正義センター)による環境正義運動です。ここはアメリカの環境正義運動の中でも特に草の根レベルで活躍してきた団体です。
CHEJの始まりはラブキャナル事件での住民活動でした。ニューヨーク州ナイアガラフォールズ市の郊外住宅地において、運河(ラブキャナル)の建設跡地につくられた化学工場の廃棄物埋立地から有害化学物質が漏れだしたという事件です。1970年代後半に地区住民が健康被害を訴え、政府に集団移転を求めました。
この運動が住民(多くは労働者階級やマイノリティなど)による「環境正義」運動を活発化させるきっかけとなりました。他の地域社会が同様に孤立して有害な健康被害に直面しないように運動を支援していく目的で、1981年にCHEJが設立されました。
1と違って、2の運動は人種のほかに、宗教、地域、年代、貧富、性などのさまざまな脆弱者の視点で不正義を扱っていることに違いがあります。
1と2のどちらも「公平」の規範から問題を捉え、「分配の正義」のうちの「結果論的正義」に考えかたにより解決を図ろうとしてきました。つまり、住民運動は結果としての被害を受けないように事業の中止を求め、被害の発生後には補償や回復措置を求めました。
1と2はローカルな環境問題における正義の運動で、不利益を被る脆弱者は特定の地域住民です。これに対して、3はグローバルな環境問題(気候変動)における格差を是正しようとする正義で、不利益を被る脆弱者は開発途上国や将来世代(子どもたち)というグループです。
先進国(グローバルノース)と途上国(グローバルサウス)の問題は、本連載の7回目「日本人が考えるべき、貿易の不平等による開発途上国の問題」で取り上げました。
気候変動における南北の不正義は、加害と被害の両面にあります。加害面では、先進国がこれまで地下資源を使って快適性や利便性を追求し、温室効果ガスを排出してきたのに対して、途上国はこれから地下資源を使って経済発展をしようとしいう段階にあり、両者に加害の程度の差があります。
被害面では、先進国は気候変動の影響を防ぐ、資源やインフラが整っていることに対して、途上国は資源やインフラが不十分で、より深刻な被害を受けます。加害者に受益があり、被害者は受益が少ない、二重の不正義となっています。
加害面の不正義に対しては、国際交渉では「共通だが差異ある責任(CBDR: Common but differentiated responsibilities)」、すなわち「すべての国が責任を共有するが、その責任の程度は歴史的・経済的に異なる」という原則が適用されています。CBDRは1992年の地球サミットにおいて、「環境と開発に関するリオ宣言」で定められ、加害面での責任が大きい先進国に資金援助・技術移転・排出削減の率先などを求める根拠となってきました。
被害面での不正義については、 2022年の気候変動枠組み条約の締約国会議(COP27)で、「損失と損害(Loss and Damage)」の問題が議論され、先進国の資金拠出による「損失と損害基金」の設立が合意され、開発途上国への支援が検討されています(図3参照)。
世代間の格差については、本連載の10回目「環境問題によって侵害される『子どもの権利』を考える」、第11回目「子どもの参画による持続可能な社会をめざして」で取り上げました。現世代が人生において温室効果ガスを大量に排出してきたこと、これに対して将来世代(子ども)の人生はこれからで、これから気候変動の深刻な影響を被っていくこと、そこに世代間の不正義があります。
このため、締約国会議へのユースの参加を強化し、若者の声を活かす政策形成が行われるようになってきていますが、日本国内では気候変動の政策形成への参加は大人ですら不十分で、若者の参加はまだまだこれからの状況です。
気候変動の国際交渉おいて南北格差については、「平等」ではなく「公平」の観点から差異ある責任の原則が具体化され、「結果論的正義」の観点から損失と損害への資金負担が検討されています。
これに対して世代間格差については、参加による「手続き的正義」が進められつつあります。世代間格差についても「結果論的正義」の具体化が求められることになるかもしれません。たとえば、南北格差を是正する基金を設立するなら、将来世代が気候被害に備える基金を現在世代が現段階から用意していくことも考えられます。
1~3は人と人の間の環境正義の例ですが、これに対して、自然と人の間での環境正義も重要なテーマとなってきています。
動物の福祉、動物の権利、さらには自然の権利を考えると、動物さらには植物、あらゆる自然の主体に対する人側の加害、動物と人の間の不平等な扱い(種差別)の是正が必要となり問題となります。これについても、本連載の8回目「動物の福祉と権利の問題の根本にある、『種差別』と『人間中心主義』」、9回目「ワンヘルスとワンウェルフェア、そしてその先へ」で取り上げました。
自然と人の間での環境正義で難しいのは、人には基本的な権利(人権)がありますが、動物や植物といった生き物や自然の権利は明確なもののとして共有されていないことです。分配の平等あるいは公平を是正しなければいけないという前提が不明確なのです。また、対話による公正を調整していこうとしても人以外の生物は人の言葉を話すことができなく、対話が成立しない「声を持たない存在(silent stakeholders)」です。人以外の生物の代弁者が必要となりますが、誰がどのように代弁をすればいいのでしょうか。
1990年代に行われたアマミノクロウサギ訴訟の例を示します。奄美大島でのゴルフ場開発計画に対して、地元住民や環境保護団体が反対運動を展開し、アマミノクロウサギ、アマミヤマシギ、オオトラツグミ、ルリカケスを原告とした訴訟を起こしました。
1995年から始まった裁判は2002年に判決となりました。「これまでの立法や判例などの考えかたに従い、原告らに原告適格を認めることはできない」として訴えは却下されました。しかしら、判決文では「原告らの提起した「自然の権利」という観念は、人(自然人)及び法人の個人的利益の救済を念頭に置いた従来の現行法の枠組みのままで今後もよいのかどうかという極めて困難で、かつ、避けては通れない問題を我々に提起したということができる」と記し、自然の権利や環境正義に関する議論を活性化させるきっかけとなりました。
この裁判は、自然と人の間での「手続き的正義」の限界を浮き彫りにし、また自然と人の間での「分配論正義」をどう設計すべきかという論点を提起しました。アマミノクロウサギ訴訟では結果として、ゴルフ場開発は中止となりました。裁判によって、関係者が関心を高め、内省と対話の必要性を投げかけられたという点で、「関係論的正義」の必要性への気づきを与えてくれたともいえます。
海外では、2008年のエクアドル憲法で「自然は存在し、生命を維持し、循環し、再生する権利」を持つと明記し、自然の権利の法的権利を定めています。
しかし、日本での法的な整備はまだまだ途上段階にあります。たとえば、日本の「動物の愛護及び管理に関する法律」(動物愛護管理法)は、動物の虐待などに対して、国民の間に動物を愛護する気風を招来すること、動物の管理に関する事項を定めることを目的としています。
愛護という人のありかたとしての正義を広げようとしていますが、動物の権利を認めるものではありません。また、同法が対象とする動物は、人が飼育などをしている動物(家庭動物、展示動物、産業動物[畜産動物]、実験動物など)に限定されており、野生の動物、さらには植物などを対象にするものではありません。
生き物多様性の保全やネイチャーポジティブへの取り組みが活発化していますが、生態系サービスの享受という人側の利害関係における正義の議論に留まることなく、自然と人の間での正義の実現に向けた検討を進める必要があります。
ここまで、環境正義のいくつかの事例を示しました。一人ひとりの権利、特に脆弱者を重視する分配の環境正義に関する議論や実践が以前より進んできているのは確かです。しかし一方で、脆弱者の権利をないがしろにすることになる功利主義的な正義がはびこっているのも確かです。先にも書きましたが、功利主義的正義は脆弱者の視点を軽視する点で正義ではない点で、正義ではなく、単なる功利主義というべきものです。
では、なぜ、功利主義的正義はなくならないのでしょうか。3点をあげます。
1つは、功利主義的正義は「最大多数の最大幸福」という単元的な目標を持ち、わかりやすいからです。これに対して、分配論的正義は単純に答えを出すものではなく、対話によって折り合って着地点を探すものです。
2つめは、行政や政治、企業にせよ、短期的な決着や成果を求められるため、合意のための手間と時間がかかる分配論的正義を採用しきれないためです。功利主義的正義は、わかりやすいだけでなく、短期的に手間を省いて決着をしやすいものです。
3つめに、一人ひとりの人権への大切さへの認識が高まってきているとはいえ、成長や効率性を重視する〇〇中心主義が無意識なままに定着しており、その前提を批判的に捉えることないからです。現在の社会は全体の成長や目的に対する効率性を重視しており、その疑わない価値観にマッチするのが功利主義的正義です。わかりやすさに囚われない、短期的成果主義を改める、〇〇中心主義を根本的に見直すということがないと功利主義的正義はなくならないでしょう。
もっとも、あらゆることを"対話による公正の確保と脆弱者との関係づくりを重視する関係論的正義"によって判断していくのは現実的ではありません。判断を求められるテーマに応じて、重要なことは関係論的正義で、重要度が低いことは功利主義的正義で考えていくなど、ケースバイケースで正義の考えかたを使い分けていくことが必要になるでしょう。
環境正義・気候正義に関しては、功利主義的正義ですますことなく、丁寧に考えていくべきテーマは多くあります。気候変動対策におけるグリーン成長における格差の問題、先駆的に取り組む地域とそうでない地域との格差の拡大の問題、環境政策の立案に子どもや障がい者などの脆弱者が参加できていない問題、原発はもとよりメガソーラーの立地場所が地方に特定地域に集中する問題などは、功利主義的正義にならないようにしっかりとした対話をしていくべきテーマです。
最後に、環境正義・気候正義の検討の進めかたとして、重要な点を3つあげておきます。
1つは、環境正義・気候正義によるパターナリズム(押しつけにより個人や企業の選択の自由を制限する)への配慮です。たとえば、気候変動の世代間格差の是正のために、大人世代に過度の負担を求めることに対して、受容性を高める配慮が必要になります。パターナリズムが過度になると、強者への逆差別のようなことにもなりかねません。
2つめは、無意識の不正義への気づきを促すことです。得てして、加害者の側にいる強者は、自分が強者の側にいることに気づかず、自分の行為による被害を受ける弱者のことを知らないでいます。この不正義を知る学びや弱者の声を聞く機会を学校教育や社会教育、政策の場に設けていく必要があります。
3つめは、功利主義を当たり前とする前提を問い直す訓練の場をつくることです。多数決での意思決定をしてきた私たちは多数決の問題を疑うことなく、多数決を当たり前としています。この当たり前の前提を疑い、手放していく、そうした訓練を受けていく必要があります。
次回は、「環境と福祉」シリーズの連載最終回として、まとめをお届けします。